〈物語のタネになる感情〉vol.2 『類は友を呼ぶ。きれいな終わり方のため、私はすきを取りこぼす』

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先日、SNS上で仲良くしていた人とお別れした。その人は創作に関わる全SNSアカウントを消すと通話中に宣言し、Twitter、Instagramと本当に1つずつ退会していった。私は繋がりが絶たれていくのを変な高揚感の中で観戦し、そのうちに通話を終えた。

きれいな終わり方を演出するため、私は引き止めるということをしなかった。

SNS上では近かった人、を抜け出せない。

私がSNS上で気が合って、深夜まで話し込むようになった人は大抵姿を消してしまう。理由は『常に人の思考に触れている状態に疲れた』『誰かと関係値が悪くなって離れたくなった』『創作から身を引くことにした』などさまざまだ。

たとえばそれが嘘も方便で、実は『湯呑屋。から距離を置きたいから撤退ということにして、他の人とは繋がりを絶っていない』が真実であれば、私はそれでも一向に構わない。面と向かって「あなたが苦手です」とは中々言い出せないだろうから、それは優しい嘘だと思う。

けれど、ほとんどの人が別れ際に挨拶をしに来てくれるから、私は悲しいのだ。

挨拶はあるけれど、SNSの世界を飛びだしても関わり続けたい存在にはなれない。

そんな自分の存在がこれ以上矮小にならないよう、私はあたかも別れに慣れている風を装い、最後にパーッと喋ろうかなどと宣い、酒を飲みながら思い出を語り、そして、さよならをする。

それは、かつての私自身の姿だった。

私が彼らを引き止められないのは、かつて私も『人間関係リセット症候群』を患っていたからだ。

卒業の度に人間関係をリセットする。環境が変われば人は自然と離れていく。もちろん個人的に関係値を作り、リセットの範囲から抜け出した人達はその通りではない。小学2年生から続く腐れ縁の友人とは未だに毎年誕生日を祝いあうし、大学時代の友人とはよく酒を酌み交わす。けれどそれ以外の大多数とはもう絡むことはない。環境が変わるだけで簡単に変わってしまうのが人間関係だと私は信じ切っていた。

それは社会人になっても続き、そのせいで大失態を冒したことがある。

当時同じ職場で働いていた友人が仕事を辞めることとなり、最後に飲もうと仲良し3人組で集まった時、私が『これで距離も離れるし関係も薄くなるから、こうやって仲良くすんのは今日が最後になるんやろうなぁ』と言ったことで、その友人を泣かせてしまったのだ。

私は彼女が泣く理解がわからなかった。なぜなら『人間関係リセット』は環境により必ず起こるものだと信じていたからだ。わからないなりに何とか思考を巡らせ(事実をありのままに伝えた衝撃に耐えきれなかったのかな)などと頓珍漢なことを考えた私は友人に『事実やからしょうがない』と追い打ちをかけ、怒鳴られたことがあった。

それが後の妻である、という、まぁ何ともな話ではあるのだが。

今の私にできることは。

今はもう、私はあえてリセットしようなどとは考えなくなった。

環境がそうするのであれば勝手に離れていくものだし、こちらが離れたくないのならそう伝えればいいだけの話だと消化することができたからだ。

しかしそれは、連絡先が残っている場合に限られる。SNSでの出会いはSNSが消えれば死んでしまう。

ただ、私との関わりがなくなったとしても彼ら彼女らが生身では生きていることに変わりはない。であれば、ふとした時に(また創作を始めたいなぁ)(戻りたいなぁ)と思う日が来るかもしれない。だから私は、必ずこう告げるようにしている。

『俺は多分、何年何十年たってもここに湯呑屋。として存在してるから。そのためにVtuberになったから。だから、戻ってきたくなって、何かあの頃と全く違うなぁ。悲しいなぁと思う日が来たら“湯呑屋。”を探してくれたら嬉しい』

私が仲良くなる人は、皆何かが煩わしくなってこの世界から離れていく。

かつては私もそちら側だったし、恐らく類は友を呼ぶ、似た感性を持った人を私は気に入ってしまうのだろう。だからこそ、いざ彼らが離れていくとき、私はできるだけきれいな終わり方を模索する。

これで終わりではない。あくまで栞を挟んだだけ。またいつか、が起こることもある。

その日まで、私は取りこぼしてしまったすきを、陽だまりに置いてゆらゆらと眺めていることにしたのだ。

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